言葉はなくても

自分が親になると、自分の親のことは何となく後回しにしてしまい、自分が親としての任務を終えた頃、再び自分の親のことを考えるようになったりします。(ややこしっ)
最近、病気や死と向き合った、ごくごく身近な3組の夫婦から、積み重ねてきた日々の尊さを教えてもらいました。平凡で穏やかで静かな人生だけど、とてつもなく愛おしい、そんな素敵なエピソードを紹介します。

言葉はなくても

今年の夏、88歳の義父は舌癌が再発し、1カ月余り入院した。最初にガンが見つかった数年前、舌の何分の一かを切除していたので、言葉を発するのが少し不自由になっていた。聞き取れない時は、わかるまで何回も聞き直してほしい、本人のためだから、と義母に言われていた。が、それにも限度があり、2、3回聞き直してもわからない時は、適当な相槌を打って諦めていた。ただ、義母をはじめ孫たち(つまり私の子どもたち)は、この訓練(?)のおかげで、義父の言うことはほぼ理解できるようになっていた。

最初の舌癌から食道癌、咽頭癌を経ての今回の再発。不死身と言われ、その都度不死鳥のように甦っていた義父の生命力は、ただただ驚くばかりであった。だが、今回の再発で、もう話すことも、食べることもできなくなるのではないか、とさすがに心配になっていた。別の場所の筋肉を舌に移植するという今回の大手術は、高齢の義父にとって心身ともに相当なダメージだったと思う。

新型コロナウイルス感染症が2類から5類へ移行した直後の入院だったので、身内でさえ付き添いもお見舞いも全くできなかった。ただただ自宅で待つしかなかった。手術当日は義母だけ面会を許されたが、その日は遠目にICUで寝ている姿を見ただけだった。そして術後1週間程度は、声を出してはいけないと強く言われていた。

手術から1週間。ICUから一般病室に移動した。
いよいよ声出し解禁の日。義父は義母へ電話をかけた。

「もしもし、お父さんか? お疲れさんやったね」
「あ、あ・・・」
「よかったね、少しずつ頑張ろな」
「う、う、あ・・・」
「あ、病人に頑張ろ言うたらあかんな。頑張らんと頑張ろな」
「あ、あ・・・・」

声は出るけれど、言葉にはならない。
だけど電話の向こうの義父は必死で義母の話に応えようとしていた。

何度も「よかった、よかった」と言って、義母は泣いていた。

それから毎日、義父は義母へ電話をかけ続けた。言葉にはならない声を振り絞って、義母の一方的な会話に一生懸命応えていた。

退院の日。私と義母は病院まで迎えに行き、義父と対面した。少し痩せていたが、顔色も良く元気そうに見えた。ほっとした。やはり義父は不死身だ。
帰りの車内での会話は、相変わらず聞き取りづらい時もあったが、リハビリのおかげで手術前と変わらず、義母の通訳を交えて会話は成立できていた。

途中、義母はコンビニへ立ち寄り、その間車内で義父と私とふたりで待つことになった。一瞬、焦った。義母なしで会話できるだろうか・・・。私は耳の感覚を研ぎ澄まし、頭をフル回転させて、義父の言葉に意識を集中させた。
結果は手術前と同じ。半分は適当に相槌を打っていた。ダメな嫁だ。・・・義母には内緒にしておこう。

(おわり)

ポケットにプリン

私の母は認知症のため、実家近くの施設に入っている。父は毎日母の顔を見に行っていた。
「今日は機嫌がよかった」
「ずっと眠そうだった」
たまに実家に顔を出すと、父は私にそう教えてくれた。

母が認知症と診断されて数年が経つ。最初の頃は、忘れっぽい母に苛立ちを感じながらも普通に会話ができていた。が、今では、娘である私のことなど忘れてしまっていた。父のことはわかるのだろうか、それさえ私には疑問だった。

父は昭和1桁生まれの頑固な性格で、母がこんな状態になるまで、料理や洗濯など一切の家事をやったことのない男だった。朝目覚めてから夜寝るまで、全てのことは母が用意してくれていた。
そんな父だが、今では実家を訪れるたびに、父が一生懸命作ったであろう料理や、母が元気だった頃よりはるかに整理整頓された冷蔵庫の中を見て、そのポテンシャルに驚いたものだった。

父の日課である施設訪問に、ときどき同行した。父は決まって上着のポケットにプリンを突っ込んで持って行った。栄養管理をしてくれている施設の人の目を気にしながらも、自力で食べられなくなった母に、スプーンですくって食べさせていた。1個100円もしない安いプリン。表情も無くなってしまった母に、「おいしいか?」「今日は娘が来てくれたよ」と一方的に話しかけながら、甘い香りのプリンを根気よく母の口に運んでいた。

コロナ禍で介護施設は出入りが厳しく、事前予約と面会者の数日間の健康観察記録が必要になってからは、父は月に数回しか行かなくなっていた。

スーパーでプリンを見かけるたびに、父の膨らんだポケットを思い出す。恋人同士のようにプリンを食べさせる日々はまた来るのだろうか。私には父のようにプリンを食べさせてくれる人はいない。無表情で口をポカンと開けてプリンを待っていた母を、心の底から羨ましいと思う今日この頃であった。

(おわり)

命より大切なこと

叔父が熱中症で亡くなった。叔母のお墓の前で。

父から電話で知らされた私は、ちょっとパニックになった。なんで? 確か叔父は病気で入院しているはずだ。

よくよく聞いてみると、叔父は自分が入院しているせいで、叔母のお墓の掃除ができていないことをすごく気にしていた。
退院したらすぐにでも行きたい、と周りにもらしていたらしい。真夏のお墓掃除は若い人でも危険だから、もっと涼しくなってから行くように、散々注意されていた。

退院の翌日。
近所の人が、お墓でうつ伏せに倒れている叔父を発見した。救急車で運ばれた時はもう手遅れだった。

せっかく病気が回復したのに、居ても立っても居られなかったのだろう。
叔父と叔母には子どもが一人いるが、社会人になってから遠くに住んでいる。だからずっと二人っきりだった。数年前に叔母に先立たれ、独りになってしまった叔父。仏壇やお墓には叔母の好きな花を欠かさず供えていた。

お墓に向かっているときの叔父は、私には想像もできないくらい幸せだったのだろう。夢中で草をむしっているときも、暑さなんて1ミリも感じていなかったのかもしれない。
自分の命より大切なものが、そこにあるから。

その日、叔母のお墓はきれいな花であふれていた。

(おわり)

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岡山在住。 子育てに区切りがつき、好きなことを仕事にしようと長年勤めた会社を辞めてはや3年。 編集・ライター講座に通いフリーライターを目指してみたものの、未だバイト生活。右往左往の日々が続いています。 そんな毎日の中から見つけた、はかなくも楽しい日々のあわを書き留めました。